初台のICCで無響室に入ってきた。

残念ながら部屋の入り口の扉は閉められないとのことで無響室を完全に体験したとは言えないんだけど、それでも部屋の隅まで行けばほぼ無音の状態を体感することができた。
隅まで行って動きを止めると、耳を澄ますまでもなくすぐさまキーンという耳鳴りのような音が聴こえたというか、感じられた。
夜中に本を読んでるときなんかに、そういった音はたびたび聴いてはいたけど、それが本当に神経系や血流の音なのかはわからなかった。でも確かにこういった空間に身を置く事で、それが空耳のようなものとは違い、身体から出ているようだということは、はっきりした(それを夜中に聴く限りではなんかどっかの電波を脳がキャッチしてんじゃないか、というようにも考えていた)。
それが確かに思えるのは、響きが無い状態にされ、周囲の環境との関わりを断たれ知覚できなくされることで、環境と自己の差違を強烈に意識するようになるからだ。
部屋に入るとすぐ強い圧迫感を覚えるのだけど、これは知覚が、聴くことによって周囲に感覚を広げて行くことができずに自己の周囲に留まるからで、それで自己の輪郭のようなものが密に形成されるのだ。
改めて空間感覚における聴くこと、エコーが持つ情報の重要さを再認識した。
ただこれは身体感覚のようなものとは違い、むしろ自我意識のようなものとして感じられてしまう。

無響体験は、今いったような環境と自己の差違が強烈な知として到来することで無音の周囲を背景に自己そのものを環境として聴くようになる、ひとつのパラダイムシフトを齎すのだけど、自己の身体を(環境として)知覚するときに、環境を介したジオメトリックな反響の中で知覚することと違い、音響情報が非常にリニアなものになって迫って来て、その消失点のようなところで知覚されるようになる。
つまり、そこで知覚されること全てが、異常なまでの求心性を持って現れるのだ。
(ところで、音や、音を発生させようとする自己の行動も含めて、全てが高い求心性を帯びているこのような状態は、初めてのはずなのに、なんとなく覚えがあるような感じがしたのはなんでだろう?)
無響室が不安を人に覚えさせるとすれば、それはたぶん、音響情報が収束していく先の終着点であるはずの「自己」が、ぽっかりと空いたブラックホールのように思えるからではないだろうか。
反響をせずに直線的に音がやってきてしかも持続しないので、情報が分散しなくなり必然的に全ての線が収斂する中心を形成してしまうのだけど、当然、中心そのものは知覚されない。

(私にとって)「沈黙は存在しない」。
言い換えれば、沈黙は聴くことができない。
一見同じようなこれら2つの命題はイコールではなく、後者は沈黙の不在を肯定せず、逆説的なやりかたで秘密裏に聴覚と沈黙を結びつけることで、音の不在として沈黙を肯定する。沈黙を存在論的に処理するのは誤謬である。
上で言っているように、聴くことによる知覚は環境との関係の中にあり周囲に広がっているが、それは聴いている身体(知覚システム)の沈黙(背景化)によって支えられているのだ。
だから沈黙は複数的である知覚系の内からひとつの知覚を活性化させるときに作動させるモードの切り換えみたいなものだ。
ただ、こういったモードの形成が純度を高めるほどに求心的になり、その無限遠点である自己が自らは空虚であるにもかかわらず自信の存在を主張しはじめ、またそれが全てであるように感じられて来るという危険があるようにも思える。
「沈黙は存在しない」ではなく「沈黙は聴くことができない」へ。そこからは2つの帰結が齎される。
前者を存在モード、後者を可能モードと呼ぶとすれば、存在モードにおいてはいついかなる時でも音が聞こえてきている非常に受動的なモードとして理解できる。ここでは全てが音で満たされているがゆえに音の到着点だけは、音とともに自らを消失させる。そこでは知覚システムは聞かれることで自らの構造を失いはるか彼方へ後退してしまう。そして今度は「聞いている私」が影として現れる。それは構造(実質)を持たないが、構造を持たないがゆえに本質として君臨しうる。
可能モードでは、聴覚という知覚システムはその作動において、自らの音を発生させる。そういう意味では「聴くこと」そのものにすでにノイズが折り込まれている。可能モードでは、無音と有音は区別されず等価であり、(システムそのものも問題とされているから)どちらも背景化している。つまり全ては「聴く」という、音の知覚=探査、ピックアップが問題となっているので、音があろうと無かろうと、「聴かれていない」という状態こそが、いわば「沈黙」なのだ。

ただ、知覚システムを考えるにあたって、行為的側面を強調することは重要だが、それが全面化すると、情報を全て自らの反照であるような状態を人工的に作ってしまうことになり、受動性を失うことになる。受動性は存在モードのところで言ったように影としてのイデアルな自己を無限遠点に持つことができ、それは主体性の揺籃でもある。しかし可能モードの自己は全てを可能であることの自明なレイアウトの中で直接的にピックアップするのでその知覚=行為の適切さにおいて主体性を失う、という逆説を引き起こす。
知覚が、知覚することにそのものおいて常に気散じとなるような情報を知覚している、という状態が、生命にとっては本来的に健全なのだ。
このようなことは、すぐれて気散じの時代である現代では言うまでもないことのようだけど、その実、知覚の作動モードがほとんど単層化してて切り換えることすらままならない状態で、誰もが気散じをしているようで単線的になって(されて)いたり、創造だの感性だのという言葉を強迫的に浴びせられてて、眠ろう、眠ろうと考えてしまうがゆえに眠れない夜というような、そういう状況に追い込まれている節もなくはない。
要するに本来的に複雑で、複数的な世界にあって、いかに知覚の作動モードを形成するかということが問題なのであって、ここで言った2つのモードなんかは図式的なものでしかなく、具体的な知覚を扱ったものではない。
しかし世界の、単独でありながら複雑きわまりない複数性を殺さずに取り出し、しかも作り変えようというのであれば、ここで示されたような図式的ではあるけど、それゆえに原理的な問題と何度も付き合う必要がある。
自己の不在を見ることはあまり楽しいものでも気持ちいいものでもない。
無響室のような個絶状態が見せる深淵、中心にゃなにもない、ということに耐えることができれば、自己の音のような、聞えにくい微かなものも知覚できるようになる。
音を「聴く」ということは、自らに響かせるということなのだから、当然、中身がからっぽのほうが良く響く、というのは冗談だけど、自らの条件を探査するには、響きの中に自己を置く必要がある。空間に、時間に、場所に、自らを重ねること、物質的に全てと並列させることであり、それはある意味自らの空虚さを経験することでもあるはずだ。しかもそこから、必然的なものとしてあらわれる固有性の上で活動すること。