王監督が引退ということで、現役時代の映像がテレビで流されていた。


そのバッティングフォームが、端的に見た目として非常に美しいのだけど、またスイングの表情もとても豊かなものに見えておどろく。バットのスイングを「豊か」と感じることがあるということも驚きだけど。
ひとつの行動プロセスで、スイングの始動から、インパクト、振りぬき、というボールとバットの衝突を挟んで、3つの過程をそれぞれ別の意識でもって動かしているかのように、第三者的な見えのレベルからでも、たんなる慣性運動とは違う大きな変化の様がみてとれるようだ。
おもわず僕が「表情」と言ったのは、そのプロセス細部の調整の精緻さと調整箇所の豊富さのことなんだろう。
もちろん王本人からすれば、それよりはるかに複雑で微細な調整を、意識的にではなく行っているわけだけど、おもしろいのは、王にしても、振り子打法といわれるようなフォームにしても、投手の投球プロセスの始動から、打者の身体のほうでも同じくプロセスを始動させておくことで、いわば自己の身体が必然的な重心移動を感じ取りながら、流れの中で打撃フォームを調整しつつ進行させるということだ。
球をバットにあてる、ということだけをとりだせばこの予備動作は意味がないもののように見えてしまうが、あらかじめ打撃のフォームを流れ(身体の揺れ といってもいい)の中におく、身体の中に流れを起こしておくといっても同じことだが、そうしておけば腕の筋肉に瞬発的に力をこめることからくる打ち筋のズレを低減できるのだろう。流れの中で静止を作る。
この「流れ」を作り出しておくことの利点は、逆説的にきこえるかもしれないけど、「流れ」に乗せることで行動プロセスを安定な系にまとめあげられることだろう。

それには頭部(視点)の安定性が得られることもあげられるが、視覚の安定性と確実さは行動プロセスが確定されひとつの作動システムとして形成されなければ駄目で、見えればいい(スロービデオのようなもので)というわけではない。



運動を捉えるためには、自らの身体にも運動を形成してやらなかればならない。