福島駅で新幹線を降りるとはるか前方に連なった高い山々が臨める。また、盆地と呼ばれる地形をした土地なので、高さ大きさにおいてはまちまちだが、ぐるり見渡してもすべてが山に囲まれている。どの方角へ視線をのばしてみても、目は山にあたり、必ずせき止められる。特に西側には2000M級の山々が連なっているため、西に対する印象は、他の方角を臨んだときよりもはるかに決定的になる。駅を基点として(そもそも線路と駅は空間を分節し社会的なものとして編成する基礎として、指針として働くのだが)東西南北、それぞれに印象に違いがあり、惹起される感覚にもまた特色がある。その総合的なものとしての印象、記憶以前の情報は、表層的でありながらもそうそう覆ることのない、物理空間に対する実質的で有効な情報であるが、その土地や空間にのみそなわった情報ではない。まさにそこに私がいることによって得られる情報というのは、私がこれから起こしうる行動やそこまでのルートや経験との相関ににおいて決定されては書き換わっていくものだ。しかしもちろん物理系である土地空間の持つ持続性は(意図的に大幅に改編されることがあるとはいえ)人間のそれよりも遥かに長く、それゆえ人工物ではない自然物との関わりから得られる定位感は強力なものとなる。この経験を超えた定位感というものは、たとえばここでの山々を眼前に臨んだ場合のような空間感覚は、山を視界の底としてそこからとそこまでの景観と距離が畳み込まれており、その「間」は空間をふくらみを持ったものとし、そのふくらみの中で行動の可能性をアフォードし、これからの経験の端緒、場所の取得のてがかりとなり基礎となり可能性を支持し続ける。定位は可能性そのものの条件である。
距離感覚は視覚によって十分に得られる。人工的な建造物より高く、背後に山が控えていることによって、都市的で機能的なレイアウトとして空間が分節されることよりも基底的な空間感覚として、山との距離によって空間は測られ、場所の感覚が得られる。山は、人工物よりも恒常性をもった実質として、知覚、認識されるので、個人の歴史というスパンでみれば、なによりも堅固な地盤として我々の定位を可能にしてくれる。例え、地表から、自分の記憶の場所がすべて破壊され、改竄され、消失してしまっても、極端な話、すべてが更地になってしまったとしても、山との関係において得られる定位感があれば、この場所の場所性の根底的な部分は残るといえる。
空間と場所の感覚。それは知覚だけで形成されるような単純なものではない。何かが何かに優位し、必要条件を満たさなければ場所たりえないということもなく、本質的な非場所なる忌むべきものがあるというのでもない。場所が特殊な全体性を得ることもあれば、いびつな個別性しか持たないこともある。しかし誰であれ生活を営む必要があり、どこであれそれがなされうるし、場所が記憶と結び付き、単なる空間以上のもとなるのであれば、定位の感覚はかけがえもなく重要である。
この定位の感覚を、リアリティと言い換えてもいい。ただしそれは強度としてのそれではなく、入力される刺激や情報とは違う。むしろそれらを可能にするもの、リアライズするものである。帰巣本能という言葉があるが、感覚や知覚や認識を超えて、全てのベースとなり、あらゆる連続性の支点であり、行動や行為の前提として横たわっているもの、それが家であり、もっと言えば巣であり寝所であって、これは記憶の連続性感覚を支える点であるといえるかもしれない。距離感覚は視覚によって十分に得られる。が、しかし、場所感覚は、歩き回り探索することから得られる感覚、知覚との混融によって対象化や分節化や目的化を誘発し、立体化して、自己とも関係付けられ、過去にも延びていく。定量距離空間は、こうして空間内をまさぐられることにより、私的な場所としての性質をおびていく。この、場所の私性、私的場所の無限に微分化し、対象化しうるが言語化が難しく、非社会的な場所は、幼少期に形成され、やがて場所の社会的認識とさまざまな行動の制限によりて、実質の場所から離れ、やがて記憶のうちに沈んでいくだろう。
しかし、空間を行動可能なベースとして、場所として取得していくときに、巣から移行し、到達したという連続性とともに形成されるということを忘れてはいけない。それは記憶とともにあるし、ある意味場所は、記憶化されることといってもよい。