横浜美術館で「セザンヌ主義」をみてきた。


美術展というものに行くのが前回のセザンヌ展(99年)以来だったので、今の自分に一枚の絵に集中して見るというような面倒な仕事ができるのだろうか、興味が持続するのだろうか、という不安もあったのだけど、実際に見てみると、考えることは尽きることなく出てきたので充実した経験になった。
この人の絵にはそういう、端的な綺麗さのほかに、思考を誘発するようなところがあるんだろうな。
なかには絵の具を筆にたっぷりつけたまま、ぐにゅーと引っ張るような筆致でかいた静物画なんかもあって、初期の厚塗りから薄塗りに移行する時期の絵なのか、はじめてみたタッチだったのだけど、成功してるかどうかとかそういことはどうでもよくて、そんなこともやったんんだとわかって、おもしろかった。それにやはり1890年前後の風景画はすごく面白くて、そのへんの2,3点の絵は非常に良かった。
セザンヌは一つ一つのタッチをユニット化して積み上げることで面を作り、配置することでリズミカルに画面を構成しているようにも見えるのだけど、ゴーギャンゴッホのようなタッチとは違い、様式化まではいかず、いま一度自然の中に戻り再検討、再解釈することで作品を、というよりは画業そのものを活性化させていくようなところがある。
様式化しないということは、ある意味でハナから画面(全体)を仕上げるということを放棄することでもあるのだけど、本来ならばそこで微視化したりイデオロギー化して作品を補填していくというのが方向性としては一般的なのにもかかわらず、そうせずとも画面がまるで崩れないのは、別の支えがあるからだ。
おそらくセザンヌは、自然を眺めて美しいと思ったにせよ、そこへ一直線に突っ込んで表象不可能性にぶっつかって自滅したりせず、早々に画面の上の小さな美に執着することで対象を描きながらもあっさり絵画を自律させてしまったのだ。
全体を構成するための下位ユニットとしてのタッチを重ねるのみではなく、ひとつひとつのタッチそのものに美を担わせることで、画面から自然を排除してしまうことを回避しながらも絵画の表層に物的な支えを獲得したのだ。
様式も美も感覚も認識も、そのキャンバスという物質的な表層の上に、タッチとのあわいにある。セザンヌはそこに素朴に魅了されていたのではないだろうか。
面を作るタッチとタッチの縁が塗り残しになっているのも、タッチの均整な美をおかしてしまうのをおそれているように見えなくもない。山の稜線にかからないようにザッと描かれた空のあたりにそれは顕著だ。
風景画ではとくに木の描き方を色々試してるように見えるけど、そのタッチは建物を描くときとは異質な奔放さを帯びることが多い。けど、樹木以上に物質的にも異質な「空」を描くときには投げやりさすら感じられたり、一切手をつけていなかったりするのは、セザンヌのようにタッチを重んずる画家にとっては、対象の尺度が問題になってくるからではないだろうか。自画像作品の背景のまったいらな壁の、まるでそこをパレットにして混色してたかのような斑模様をみると、こんな平面を塗るのは難儀しただろうな、と思ってしまう、そういう意味では、風景画という遠くを描く主題は、尺度としてモアベターなのだと思う。
晩年は静物なんかかいたのだろうか?


画面がキャンバスという物的な支えを露呈させつつ交錯している様は、メディウム・スペシフィックな観点を先取りしているようで、なるほどそういう意味でもやはり「近代絵画の父」なのだな、と思った。